遠い海の記憶
作家は若い頃、UKのギャラリーで、個展開催中のTony Cragg (1949~)と出会い、カタログを手にしながらサインをして貰うのを忘れたと話し、私は思わず同じ頃(それより数年前)、上野で開催されていた斎藤義重(1904~2001)の大規模な個展会場で、関根伸夫(1942~2019)と二人で並んでいたところへ歩み寄り、カタログにサイン(斉藤義重の文字はひどく小さかった)をしてもらったと返した。我々はあの頃、謂ってしまえば「オタク」だった。1970年をピークとした高度成長の、欺瞞と虚飾への不満がなし崩し的に静まり、「しらけた」ムードの中、手探りで世界の情報を集めながら、その情報取得の先行者が先導(煽動)する時代の片隅で、現代美術を偏愛する制作見習いとして、Joseph Beuys(1921~1986:「ヨーゼフ・ボイスと対話する学生の会」1984,6/2)やNam June Paik(1932~2006)の仕草に一喜一憂しつつ、ポスト欧米の視覚藝術を、多角的に追求する病に犯された青年期を過ごしていた。作家刈込芳一の現地制作が続く間、深夜迄話し込み、構築中の作品に関する事は勿論、互いに交錯のなかった40年ほどを貫いていた「オタク」の気質があったからこそ今に辿り着いたと、幾度も近似経験を重ね合わせて、その符号やズレに、今更に互いに、首を傾げ、頷くのだった。
太平洋の水平線を背に建った鏡の破片で覆われた「家型」の作品画像をSNSで見で即座に、低予算での企画招聘をお願いし現地下見もして頂き快諾を得たが、その後作家は重篤な病に罹り大手術を経て、彼の身体の恢復を歓び、つまり三年を跨いだ個展実現の運びとなった。FFS倉庫ギャラリーでの立体インスタレーションは、当該スペースを全うするスケール感で構築されている。実は準備はしたが展示をやめた作品パーツもあり、事前プランでは立体物の設置状況を空間に応じて変更(立てるものを寝かせた)したものもある。一義的なコンセプトによって成立したものが、状況照応しその意味合い、感触を変化させて、全く異なった強度を持つことを作家が許したのは、作品自体から促されたものだろう。こうした変位は私にはまるで「舟」のように感じられた。事実立てかけられ天へ昇華する大木を祝福する「フレーム型」の初期設置と異なり、今回の併置はその形態が全て視る側の人間的な部分へ迫ってくる。立体物を支える石ころは、信濃町鳥居川河原にて採集したものが使われた。過去の展示(2013・2014・2016・2018 アートミーティング 田人の森に遊ぶ / 福島・いわき、2016 小屋展 / 千葉 富津市)の為に制作された「家型」「椅子型」「フレーム型」と、今回の為に新作設計された「円形型」が、併置された構造で展示空間が仕上げられたが、分解運搬されたパーツを結合構築する現場作業に時間は注がれており、その時間自体が接合部の研かれた痕跡となって、立体作品の空間と場所への定着メディウムの働きを示している。採集した石ころを並べほんの十数センチ地から支え浮かせることによって、4.5M径の円環は游動の気配を纏って存在の重さから解かれ、くるくる動き出しそうな軽さを得た。海岸では杙に支えられていた「家型」は、河原の四つの石の上に置かれることで、谷の底を細く流れる渓流に差し込む斜光を受ける風情を醸している。
作家本人に尋ねたが、彼の記憶にはなかった、幼い頃にインプットされたTVドラマ「つぶやき岩の秘密」の主題歌「遠い海の記憶」石川セリを、私は鏡破片のイエガタ作品をみて憶いだしていた。こちらは山猿のようなものだから倉庫ギャラリーの壁面に、鏡破片から反射する光が、太平洋の波間の輝きにもみえるのだった。
平面作品の個展が、飯綱東高原「欧風家庭料理;アリコ・ルージュ」に於いて、トポス高地企画の一環として同時併行で開催されており、此処では鏡を支持体とする平面に、身体性に距離を持たせたドロッピング手法の連作が、そのまま「ポロック オマージュ」というサブタイトル(Jackson Pollock:1912~1956)、販売可能形態にて展開されている。同窓、先輩の小山利枝子氏が個展間際の制作で忙しい中、作家滞在中であったこともあり、倉庫ギャラリーとアリコ・ルージュにも足を運んでいただき、作品の表現手法云々よりも、タブロー皮膜に痕跡化した作家の朴訥な姿勢、気質のようなものに触れた言葉を投げたことが、こちらには印象に残った。
鏡の破片で覆われるオブジェクティブな作品と、構造素材そのもので成立する形態作品は、その発生に関しては、作家の内部では入り交じったものがあったという。つまり、児童公園や空港のロビーに、ベンチの替わりに置かれてもよい(勿論相応な変換をした上で)と私には思える「フレーム型」「円形型」も、鏡の破片をその表面に張りつめるアイディアがあったが、作家自らの前述したようなファイン・アートの系譜(記憶化)、原口典之(1946―)への傾倒などもあるだろう、鏡と形態自体への夫々分岐する指向を孕んでいる。
空間を凌駕する立体インスタレーションは、世界各地で大いに展開されており世界標準のモードとされる浅薄な見方もあるが、作家にとっても企画側にしても、特にこの国のシステム下(どこから予算捻出するのか)ではむつかしいものがある。平面作品での同時開催を組んだことは、逆クリスト(筆者が勝手に命名)(Christo:1935~)、つまり立体インスタレーションがまずあってから、そこからスピンオフで吐き出される販売可能形態(例えば平面作品・マケット作品)にて、展開を補強し、反復実現を押し進める力の一部とすべきだろうという意図がある。
いずれにしろ、会期最終日に開催されるクロージングイベント(9/28土午後3時〜)にて、作家及びゲストを交えたフランクな意識交換(トークイベント)後に、この作家作品概説は書き直される。(17,Sep.2019:machida tetsuya)