累々と異形や変容する形態を、妄想を嘔吐するかに描きだす画家は、最近二十歳そこそこの青年のような目つきで哲学書を漁っているという。悪夢を捉えるようなことが観念で、あるいは思弁で弁証するものなのかどうかよくわからないが、思考論理の体系の数々から、引用や比喩などの解釈と、あるいは断片景における物語性(意味)の発露などを求めているのかもしれない。構想の実現を、設計や目的どおりにことを進めたようにみえて、吉村の絵画は、考えるより先に「できてしまった」画面の先行感、絵画の持つ先導的役割に、むしろ画家自体が引きずられているような気もする(画面構成がそのように感じられる)。事後的にその画面の把握に画家自身が頚を傾げ、理解が届いていない体感を言説でなんとか埋めたいというところか。描かれる形象は非現実な設定が展開し、描く主体と描かれた対象の狭間に画家は挟み潜む風な体裁を持ちつつ、そこから浮遊逃走し俯瞰したいのではないか。つまり「絵画」として描ききっていない半端な状態という、どっちつかずの画面の性質に、実はこの画家の面白さ、作品のオリジナルティーがある。
昨今、様々なデバイスやメディアによってシミュレートされた仮想現実景は、火星住居であったりゲームの世界観であったり多様で克明に顕われて現実に極めて近い(ように)視覚的欲望を満たしているので、仮想自体の想定がどのようなものであっても、わたしたちはその想定を簡単に共有する。簡単に共有できなければ仮想現実とは呼ばれない。現代絵画にも仮想に向かうものがあり、例えば個人的には長い間関心を抱き続けているエイプリル・ゴーニック(April Gornik:1953~)のランドスケープは、だが全く別の事柄として目の前に迫ってくる。これは筆によって「描かれて」いるからであり、描くことの探求の果てのようなものが示されているので、前述したシミュレートとは大きく異なった印象と品格を孕んで受け止めができる。そしてゴーニックの探求は画家の心を映し出すだけの機能性を帯びる。
吉村の妄想と精神と軀の状態と風評やゴシップを散漫に鏤めたパズルのような絵画は、部分的に眼差しを受けいれる用意を施し、部分的に人間性(理解や共感)を拒絶し、記号論的な暗喩や比喩でそれらを顫動させて分裂的ではあるけれども、実はこうした散乱した世界観こそが現代的なわたしたちの姿なのではないかと、突然示唆される。同世代の平野啓一郎の分人とも同期する。固有な欲望に従うかにみえて実は共同幻想の元単に無意識下にて従属的であり、知覚すら放棄して聴くことも見ることも亡失している現在の弛緩した社会状態そのものの検証を実直に全うすれば、この画面になるとも云える。昭和史の検証を真摯に行っている保阪正康(1939~)の姿勢が画家に重なったのは、「検証する態度」が似ていたからだった。
彼方に置く画家の可能性が絵画作品として腑に落ちるのは、「描く」ことによってこの系がひとつの時代検証として遺されたと理解される時かもしれない。
文責 町田哲也