Shotaro Kimijima


意思の表明

 若い作家(1985年生まれ)は一年間の熟考を醗酵させ、インタビューでも自ら言葉にした、ジョセフ・コスース(Joseph Kosuth : 1945~)、私も初見で浮かべた、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887~1968)などコンセプチュアル・アートの再考とも眺めることのできるインスタレーションを、さくっと仕上げた。
 ここ数年取組んでいる禁欲的な平面作品の展開が行われるこちらの想定を、見事に覆されたことは、どこか嬉しいようにこれを感得したのだったが、幾度もみつめ直すことで、この作家の強かで脆弱、且つ、現在の認識論的な土俵の拡張性、あるいは、意味や意思決定の、非合理な豊穣の選択。等等が、つまり巨大(といっていいなら)空間に対する単独折衝として開花したとも思えるのだった。

 観念藝術の萌芽は、視覚藝術へ染み渡り、各種の美術評論なども、この染料を含み持つ物が多い。荒川修作(1936~2010)の初期作品をみても、*コスースの影響をみてとれる。
 *下引用から、「ー芸術はその焦点を言語の形態から語られている内容へと移行させた。」という影響を示す。

     芸術の機能をひとつの問いとして最初に提出したのはマルセル・デュシャンである。(中略)「別の語法で語り」、なおかつ意味のある芸術を提出することが可能だという認識を与えるに至った事件は、マルセル・デュシャンの最初の自立させた「レディ・メイド」だった。この自立させた「レディ・メイド」を機に、芸術はその焦点を言語の形態から語られている内容へと移行させた。(中略)この変化──「外観」から「概念」への変化──は「現代」美術の幕開き、そして「概念」芸術の始まりだった。/ 「哲学以後の芸術」ジョセフ・コスース著(1969)- wikipedia

 つまり、視覚芸術を感得する、「見る」という享受の手法に、観念藝術は、そこ(作品)から、想起し、スライドして獲得する物語や、派生次元を含み持つ存在として、腰を据えたのだったが、君島は、史的事象学習などによって(推測:作家はどこかで実作と出会っているかもしれない)、その藝術作品が帯びていたニュアンスを掬い上げて、現在の自身の意思決定のシステムへ援用としたといっていい。この過去との邂逅は、貧しい現在を漲らせる貴重な方法論であり、例えばオマージュ的な初動から過去の事象に対峙。あるいは憑依的な感得から当時の時代性まで含めた把握に至るまで、現在のシリアスなシンドロームを恢復させる力はある。

 ここで観念藝術の再起動を声を大きくしたいわけでは毛頭ない。非常に個人的な単独性、孤立すべき手法として、過去の文脈から(野山でモノを拾うような実直さで持ち帰るかに)、自身の意識振動がフィットする身体性を持って選ぶ自由によって、新たな現在的構築を行うことは、彼自身にとっても、眺め受け止める側にとっても、それがある種の反復に支えられることで、歓びともなる。作家は、日常のオブジェを選び、並べることによって生じる、「気配」のようなものを、おそらく日頃身体を預けている「合気道」から身の奥に仕込んでいることで、その掌握(事物管理)が可能となったのではないか。と私は邪推している。

 今時どこにでもあるコピー用紙が恣意的に並べられた上にアンティックチェアとアンティック長椅子(教会で使用されていたものらしい)が置かれて在る。片隅に古びた額装鏡があり、手前にコピー用紙が重ねられている。細長い空間の逆側には、アンティックチェアとその上にコピー用紙が重ねられている。そのチェアの背後には、セッティング時に床を南側から北側に向かって掃いて押し戻した塵の帯がそのまま残されている。と、これだけのインスタレーションであるが、コピー用紙は作家にとっては日々まず手にして構想を吐き出す初動の素材であり、選ばれたアンティックは無論作家個人の趣味的な感触がそこにあるものの、ふたつの極端な磁性を持つ素材が導く意味論的物語性には、どこかレトロでノーブルな人間達の影が朧に透き通ってみえる。わたしには、この国の特異な史的屈折の中での精神形骸に生を投げた各人の呼気のようなものを、修復しつつおびき出す儀礼の場にも眺められるのだった。

 今後どのような局面が作家に訪れるにしろ、この創作反復が可能となる状況へ身を投じる必要があり、また状況自体を構造化せねばならないこともあろう。ある種詩的な含みも広がる精細なインスタレーションであるからこそ、単に目撃・体験されるだけではなく、作家自身が、事象成熟を事物のつながりの系譜として、身体へ合気道以上に根深く張りつめていくことを期待したい。

25.Sep,2019 Tetsuya Machida Additional writing