立ち小便を禁止抑止する目的で、鳥居の図を描いたり、小さな鳥居を取り付ける事例が日本全国で見られる。鳥居は神域と人間が住む俗界を区画する結界であり、神域への入口を示すもの。一種の「門」である。鶏の止まり木を意味する「鶏居」を語源とする説、止まり木(あるいは神前止まり木)説、「とおりいる(通り入る)」が転じたとする借字説、トラナを漢字から借音し表記したとする説などがある。Karow&Seckelは鳥居の名称を鳥(Vogel)そのものに求め、死者の家として家屋の中心部だけを残して崇敬の対象としたとの説をとる。(wiki)
千年以上を経て形態が様々な社会の移ろいの中で、象徴的な意味をわずかづつ変容させながら、その記号的意味合いが無意識に潜在するかに位置する象形を、「もののこしらえ」に取り入れる事例は多々あり、例えば十字架にしろ、卍(まんじ)にしろ、古代の遺跡にしろ、遺された形態が促す時空相対的意味印象は、都度検証吟味され、感知解釈されているが、こうした象徴性があまねく固定化されたかの形態を敢えてモチーフ、テーマ、素材として使用する場合の、固有であるがゆえの対外的(日本以外)に及ぼす意味の拡散的効果ということはある。併し、靖国神社に代表される狭義な国粋主義などのイデオロギーに触れるなど、時に具象的な現代的バイアスのあるあらゆる解釈に絡めとられる場合も同時にあるだろう。木村がこうした意味の修復として、托鉢に羽根片を添える仕掛けをしていると受け取っても、印象雑感は払拭されるわけではない。だからといって、こうした創作を象徴性に戻すだけの浅薄に終わらせるのもつまらない。
木村は羽根プロジェクトと名づけられた創作構想を、主催した松代現代美術フェスティバル開催時(2002年)より、当該開催地である松代の歴史(第二次世界大戦時の大本営設置地)に沿った辿りを行いながら、「折り鶴」をモチーフに解体構成し、「すべてが負のものとは言い切れないかもしれない何かがその根底にあるのではないかと疑い始め、現在もなお私たちに引き継がれているものを突きとめ、考えてゆきたい」と、この国の生活の中から抜き取ったかの、些末な「祈り」の空間を、彫刻やインスタレーションへと拡張展開している。作家は元々鋳造という古来からある物質変換の手法で制作活動を行ってきており、高温の火を使い、その破滅と誕生を想起させる手法などから、人間の心体が及ばない「神性」や「祈り」を常々身近に感じていたのかもしれないし、制作そのものが「結界」を超えていくことであると、自らの進み行くベクトルの基礎を構築してきたとも云える。宗教的に帰依する神への祈りとは異なった「祈り」という視覚的出来事が、ひとつの意志で創出される時、わたしたちは、フォークロア(古く伝わる風習・伝承)を抱き寄せ、「私は何者なのか」という普遍の問いを呟く。「鳥居」と「羽根」と「托鉢」と示されて、発声という肉体的能動性の言語(アルファベットなど)とは異なった象形(漢字)を視覚的に、プレ言語として保持する私たちの特異な言語体系においては、象徴の意味の螺旋構造とも云える感応が、口にだすより先に訪れているではないかなどとも思うのだった。
文責 町田哲也