Arlan Huang

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 アーティストインレジデンスで来日し滞在制作している作家の作品展をFFSラウンジギャラリーで行うことになり、ナガノオルタナティブと併催となることから、ここで作家紹介を兼ねた作品概説を行うことにした。

 中国系三世の米国人のアラン・ハンにとって、アイデンティティーは、「中国」ではないと話してくれた。流れ着いた余所者がその地で自己を表出する場合に求められるのは、まず出自であり、そうした他者の世界に於いてこそ、自らの自己同一性を見極めるのだと、滞在や留学した者がよく洩らす言葉である。多様なルーツが混在するNYで人生を全うしてきた画家にとって、出自混沌のNYがデフォルトのフィールドであり、はじまりから群れと類の拘りなどない状態で、自らを生きてきたからこそ、出会うものは全て等しく新鮮なのだろう。描くことは歓びであり、愉しみであり、彼が人生の一部を注ぐ「釣り」と同様な、人生そのものであると続けてくれたが、現在の絵画手法に辿り着くまでには、相応の時間がかかったようだ。ガラスを吹いて彩色を施しこしらえたオブジェの創作があった。最近の絵画は、その果物のようなオブジェが筆でぽつんぽつんと、アクリル板をベースにした支持体に重ねられ、ベースの色によってシリーズ化されているように制作されている。わたしたちは材質の肌触りのようなものに目は奪われる時があり、その質感は無機的な意識に自然を促すけれども、画家の支持体であるアクリル板には直接的な反射を抑制する粗磨きが施されており、つまり、材質を越えて色彩が目に届く配慮がなされている。ガラスの透過性に直接描くジャン=マルク・ビュスタモントをまた浮かべたけれども、アランの手法には描くという作家の行為性あるいは自律性を示すより先に色彩を、わたしたちは浴びるように工夫されているといっていい。

 描かれたことの抽象性は、受け止める側の想像力に向けられている。これは、抽象的な表出の持つ広がりのひとつであり、観念を限定解除された彼方に共に向おうと呼びかけるような示唆である。瑞々しい植物や、あるいは清水や、あるいは夕暮れや早朝を、同時に浮かべる装置のような「コト」として、こうした抽象絵画を生活に置くことは、想像力を刷新し不足を知り欲望を新しく組み立てる手段となるものだ。

 画家はアーティストたちと作品を交えたコミュニケーションミーティングのワークショップを開催した。まだ若いクリエーターが自身の作品を彼に示し説明すると、彼も同じように率直な感想を彼らに届けていた。単なる観客ではない作り手たちとの交換を希望した画家の根底には、創作者への創作者であること自体への信頼があって、それをツールとしたつながりを太平洋などぴょんと越えて構築できるのではないかという未来を感じさせるものだった。

文責 町田哲也