スタンド アローン・コンプレックス
一人芝居「ぼくが謝りたい4つのこと」
作・出演 中牧浩一郎
演出 仲田恭子
四十を越え中年にさしかかった頃演劇をはじめたという中牧氏のひとり芝居は、冬に行ったものの再演だったが、稽古が必要ですと彼は暑い夏に準備を整えた。四つのエピソードが断章配置されたひとり芝居の舞台構成は、四つの照明(内二つは冒頭と最後のみ使われる)と、便器、プロジェクターというシンプルな仕組みで、二人のスタッフがプロットを追いながら操作する仕立てで用意された。当初倉庫空間で発声が妙な反響をして隠り易いのでピックアップのマイクを使うかなどと思案したが、演出家の「ゆっくり正確に発音すればOK」という指示で、これをクリアした。
バーカウンターで私を含めた数人の客が、彼から配役脚本をいただいて朗読劇を遊んだことがあり、役者という芸当は私にできるものではないと早々に諦めて茶化すしかなかった。役に成りきる憑依には勿論訓練や稽古が必要だろうし、それを客観視する演出家などの眼差しが役者のバイアスを矯正するのだろうけれども、まず役者という軀を引き受ける元来の体質(気質でもいい)のようなものがなければ、役者という善悪を超越した地から数センチ浮いたかの状態に身体を預けることはなかなか簡単にできるものではない。
演劇には畠があって(他もそうだが)、カテゴライズされた行う者と観る者が集うことのようだが、今回の倉庫ギャラリーという多目的な空間で、現代藝術の表出と大雑把に捉える俯瞰でこれを眺めれば、もともと総合芸術的要素の濃い演劇の枠が解体され、広がった視界で彫刻やインスタレーションや絵画との併置感が生まれる。舞台装置をそのように複雑に仕込むよりも、シンプルな状況下で、脚本と役者の動作のみに注視が注がれるよう、中牧氏は考慮しつつ、最大の効果を示す機会となったのではないか。
役者自身が書いた脚本であることが、こうした展開(ひとり芝居)の質を裏付けるものとなる。つまり彼の日常の生活、見える世界、交渉、気づきなどが、反映されるのであり、今回はタイトルへと示唆するメタシンボルとして終始手錠を嵌められた受刑者に扮したが、仮に彼が捕まったことのない牢獄の中での生を演じることが困難であるように、自らの私小説的な脚本のありふれた世界観であるからこそ、言葉や仕草に現実感が生まれる。だが、芝居の現実感というのは、暫し現実ではないという了解のもとで成立するから、其処に在る役者の身体性が、その了解を踏み越えたり踏み戻ったりするわけだ。役者の彼岸への渡り様戻り様静まり方騒ぎ方こそ、演劇の醍醐味である。
加えて、中牧氏の固有な声、仕草、姿態という身体性が、「ひとり芝居」を成立させている大きな要因であることも見過ごせない。なるほど、演出家、脚本家は、固有な役者から物語を創出するこもあるということがわかる。素人風情が、*富岡多恵子が書いた人斬り譚を彼とふたりでああでもないこうでもないと稽古をすることなどを風呂で巡らせるのだった。
*「坂の上の闇」/ 富岡多恵子著「群像」1978年7月号 / 1990年初刊「新家族」所収
文責 町田哲也