Shoji Yoshida

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 FRPという可塑材でガラスマット(ガラス繊維)を塗込んで耐久性を高め、ハサミが動く蟹道楽という店の店舗広告オブジェから、時には結婚式場庭園の偽岩(偽物の岩)制作を学生時分のアルバイトでしたことがあり、FRP造形を営みとしている友人も何人かいる。分量を間違えると発火する硬化剤で指先を焼き皮膚から数ミクロンのガラス繊維をすうっと抜き出したこともある。友人のひとりは仕事場を材料発火による火災で焼失している。私は健康によくないので早々に足を洗ったが、80年代のプレバブルの頃にはかなりの社会需要があったし、他の仕事に比べて随分ギャラがよかった。確かイギリスのFRP造形作家が材が原因で当時まだ若くして亡くなっている。
 吉田氏の中期の作品はFRPでできあがっているので、私は当時を憶いだしていた。ただ吉田氏の作品は、FRPの量が多く重い。これは彫刻家の体感が唯物的に決定したことであると思われる。人体を徹底的に粘土塑像する具象表現に打ち込んていた彫刻家の基本は、具象形態の再現というものがまずあって、一見抽象的にみえる形態をよく観れば、具体的な事物(肉体)を包むような、あるいはその具体的な事物から衣が纏わりながら飛散するかの状態・状況を彫り起している。そういう意味では、ふとイタリアの工業デザイナー Luigi Colani(1928~)なども浮かぶ。今回の企画は、今世紀初頭からを含む回顧的作品併置となったが、これが功を奏し彫刻家の軸を炙り出す景を広げている。
 最近取り組みをはじめた陶土造形(クラスター)は、このあたりの地域の歴史と絡まるかの、ぼってりとした軀の上にちょこんと首が乗った婦女子人物像(群像)で、二日にひとつというペース(無論粘土準備等のボリュームに依存)で練り上げられて焼かれる。類類と並べられるとまるで兵馬俑の様相を呈するが、私は遠野の地下水脈の音のする五百羅漢を憶いだしていた。作家とやはり磁器へ向うかなどと彼方の行方を話したりもした。
 個人的には、James Rosati(1911~1988)とか、Richard Long(1945〜)Richard Serra(1938〜)などの、状況構築的抽象彫刻作品を偏愛しているが、ロッソブランクーシーマンズーなど具象彫刻家作品にも未だに注視の目が離れることはない。吉田氏のブロンズキャスティング作品は今回レリーフ作品を含み2点の展示だったが、これは彼の手法の先が経験的に鋳造に繋がっていることを示し、故に各意匠形態のキャスティングも可能ということになるが、商業的展開判断においては簡単な制作ではない。無駄を省き生活に沿った手法として現在があると考えたのだろう、その流れをまず重厚に辿ると作家は決めている。それよりも若干の気がかりがあるとすれば、具象彫刻家が積み上げた観測(観察)の成熟(塑像)が、イコン的キャラ成立を目指す時に、どのような表情を磨き上げるかに集約されるので、短絡的コンスクエンスとして大衆性(判りやすさ)などといった事柄(風潮)の介入など省くべきと思われるし、惑わされず自身の時間軸で鍛えられた目玉と触覚を信じてよりベターな表情を追いかける反復が結果として顕われるだけで充分貴重だ。クラスターというメソッドは既にそうした発芽の仕組みが内在している。

文責 町田哲也