私がいなくなった後も世界はあるのか?
Body painting print on ground 2015
TOPOS Highland 2015 >> / 同時期開催中
目にみえるかたちになった事やモノの成立因が、即座に眼差しの理解に捉えられる表れの明快さは、視覚表出の欲望が洗練されたひとつの形態であり、「めからうろこがおちる」ものだ。34歳で逝ったイブ・クライン(Yves Klein,:1928~1962)のインターナショナル・クライン・ブルー「人体測定」を想起する結城の「人型」スタンプのインスタレーションは、同時に「石膏をしみこませた包帯を体に巻きつけて型を取る(wiki)」ジョージ・シーガル(George Segal:1924~2000)をも横に浮かばせる。近似値が反芻される仕草でありながら、半世紀を経た現在に打ち込まれた作品は、しかし異様なほど異なった出来事として受け止められる。身体性の抽出が超現実を拡張したクラインやシーガルの出現時とは逆さまの、言わば現在、現世へと降りていくかに作家の施した作品タイトル「私がいなくなった後も世界はあるのか?」にそれが率直に示されている。
子の見守る中で夫にサポートされながら軀に色彩を塗って床に転写する作業を眺めながら、「家族」へむしろ向けられたひとつの「母親の思想」として、言葉にはしない情愛の形ともいえるのではないかと考えていた。こうした作家として子は母を記憶し夫は妻として明日を生きる。たまさか同時に開催しているトポス高地展示の開始されるほんの数日前に、作家の転職(英語塾講師から中学の英語教諭)が決まり、制作時間の束縛はあるが生活は安定する家族構築への安堵もあったろう、その経緯がむしろ作品を明快な端的へ向けたのだと推察できる。
ものを想い、思考を形にすることを、他を排除して専業とすべきであるのが視覚表出作家であるというのは、独我的なパトロンの言葉であって、乱世を生きる者たちは如何様な生き方をしても構わない筈であり、彼ら現在を生き抜いている作家の様々な生活から絞り出されたかの、こうした「目にみえるかたち」が作品として顕われる時、所謂従来的な「美術」として捉えるだけでは、勿論足りない。
文責 町田哲也