092015_naoki ushiyama from baeikakkei on Vimeo.
撮影する対象だとか露出だとかフレーミングだとかカメラ自体の性能だとかレンズだとか(レンズ地獄という言葉もある)写真に拘ると底なし沼のような固執や理屈や欲望に囚われるのがいかにも人間の所業であり、つまりそういうことを如何に拒絶し浮遊し写真に付き合い同時に写真そのものの性格に寄り添えるかが、このメディアを扱う難しさと愉しさではある。バルト(明るい部屋)やボードリアール(消滅の技法)、ソンタグ(写真論)、富岡(写真の時代)、港(映像論・他)などでは「写真」の非人間的な外側の現象学とも呼ぶことのできる「扱い方」(捉え方)の困難が度々指摘され、メタフォト論として人間深層へ翻ることもある言説自体に、指摘した当事者たちの躊躇が吝か纏うこともある。例えば撮影者の恣意が勝れば傲慢で偏狭な顕われとなり、対象ばかりを追い求めれば果てないデバイスの進化に頼る後追い狩人となり、またスナップショットが簡単に撮れるのはいいけれど日に日に蓄積される膨大なアーカイブを眺める時間は残されていない。ほんの百年の関わりでフィルムからデジタルへ移行しつつある「写真」は、無限に湧き出る泡のような勢いで表出拡散しながら併し未だわたしたちは「写真とはなにか」を府に落としていない。それはおそらく人間の人生の記憶と予感に関わる「未知」のものだからだろう。写真は眺めるものでありながらわたしたちは真艫に眺めることをしていないともいえる。
丑山は繊細精緻な料理であるとかモノ自体を撮影する仕事をする一方で、「盗撮」のような(盗撮と云えないのは悪意がないからだが、欧米であるなら発覚すれば訴えられたり殴られたりするかもしれない)振り返って忘れてしまう種類の、眼差しにむしろ残らない光景をその性格のまま乱雑に撮影する作品化を行っている。この夥しい数のショットの注視すべき点は、ショットそれぞれには「目的がない」ことであり、「恣意」が剥がされてあることであり、露出やフォーカスも時に曖昧で、従来の「写真作品」のような仕上がりではなく、人間の額(瞳でもよいが)に取り付けたレンズが、意識の外でシャッターを勝手に押しているようであり、但し昨今流行のドローンとかの人間から離れて稼働する利便デバイスとは少々異なった、機械には到底できない「最低限の人間性」のようなものが写真を支えている。近未来には写真が人間の勝手な人生そのものを再構築するための手立てとなるかなどといった予感すら感じるのは大袈裟だろうか。
写真が瞬間という光の切り取りであると写真機のシャッター構造は教えてくれるが、では瞬間とはなにかということは、未だに理解(知覚)できないわけであり、瞬間をみつめるなどという矛盾した本末転倒(みえないことをみる)が、写真においてこそ人間の認識外の出来事として近接する。写真は構造としてその秘密を大らかに公開している。ゆえに簡単に「美的理解に収まる」ものではなく、こうした否写真的顕われにおいて、そもそもの意味と機能を、はじまりから組み立て直す意欲をわたしたちに生じさせる。丑山は夥しい意識の外で蓄積されたショットを、自身が生成した出来事の中から表出倫理を見いだすかに静かに見極める作業を加え、そこから選別されたものを出力する作業も行っている。今回はスライドショーとしてiphoneで撮影された1000枚ほどを投影する。不思議にもヴェンダースの夢の記憶(夢の涯てまでも)デバイスを頭に乗せた麻薬的な眺めにもみてとれる。
文責 町田哲也