Masahisa Koike

    場としてのインスタレーション

     Christo Vladimirov Javacheff (1935–2020)の訃報を知った時、マッシブアートプロジェクトの凋落を思ったものだ。クリストがステラやセラらと、貴族的で閉塞的な視覚藝術を外側へ土建屋の勢いで拡張し、視覚芸術の力を牽引したことは事実だが、昨今批判されている商業娯楽映画制作におけるダイバーシティ・ポピュラリティー事情同様、アートプロジェクト成立に関しても、大掛かりになれば、出資クライアントの傲慢無知な香りがする不透明なモノに付き纏われ、軈て作家はその泥にまみれる。それを嫌悪する人間は増えている。百年前のサーカスや見世物小屋、博物的収集時と似た、異形を集め集客誘致する一過的なアートフェスなども、どこかにレイシストが潜んでいる。つまり清潔な作家個体の表出は、社会的にはどこにも約束されていないので、作家本人が自ら開拓しなければならない。

     同世代であり、似た境遇を生きてきたにも関わらず、長い時間交錯する機会を得ないまま老いてから知り合うことのできた作家とは、時代を縦に割って平行する均質な軸を、各々が持ってきている気がする。空間を透き通った状態で構築するインスタレーションの構造とそのディティールには、虚偽がなく率直に形態を安定させる工夫が隠す事なく明快に示されており、ディズニーランドとかお化け屋敷のような、あるいは政治のような、裏腹と詐欺的なゴマカシがそこにはないので、空間自体に作家精神に直接触れているかの体感が生まれる。311へベクトルが伸ばされた今回のインスタレーションは、今年で被災十年目であり、私自身も当年3月11日に、霜田誠二氏主宰NIPAFに、パフォーマンス参加し記憶と振り返りをテーマとしたこともあり、小池シナプスの深部に炎が灯されていることに対して、率直な感情移入ができた。

     頭を下げてくぐり抜け、跨ぎ、見上げる空間を歩みながら、初期には写真を縫い合わせる技法で作品を出現させていたDoug and Mike Starn(1961~)兄弟作家の、Big Bambúを、私は浮かべていた。ロッククライマーと共に哲学的工学と彼らの示し構築する構造物の中と外に観客を誘う空間は、今回の小池雅久作品の、最早ホワイトキューブは解体された亜空間となっていることが、百匹目の猿現象(ライアル・ワトソンが創作)とも眺められた。例えば幼稚園から小学校、中学、高等学校、否、いっそ大学迄、こうした空間で学びが行われるとすれば、一体どのような人間が育まれるのだろう。

     作家の経験と知性が固有を研ぎ澄ませば、社会的属性からその精度に比例して乖離するものだ。生存帰属する場所・土地において義務を果たすに同じ意識の振舞いを重ねれば、信頼と認知を得ることができるのだろうか。作家がトークイベントで語ってくれた、「集う人」の視線の解析を、送り手は再度精査すべきかもしれない。

     Walter De Maria(1935~2013)の常設作品のように、いつか小池雅久作品の常設の場を、愉しみに待ちたい。

    文責:町田哲也