Yoshiaki Hikita

L1002371

犬の散歩 Oil pastel,Crayon,Acrylic colors on paper 1390 mm high x 1750 mm wide  2015 ¥300,000 -

犬の散歩
Oil pastel,Crayon,Acrylic colors on paper 1390 mm high x 1750 mm wide 2015 ¥300,000 –


山の絵 Oil pastel,Crayon,Water Gouache on paper 1390 mm high x 1750 mm wide  2015 ¥300,000 -

山の絵
Oil pastel,Crayon,Water Gouache on paper 1390 mm high x 1750 mm wide 2015 ¥300,000 –



 若い画家とメダルド・ロッソ(Medardo Rosso:1858-1928)の話ができると思わなかった。イタリアを回った際にみたという。親子の世代差の身体に絡みついたものが異なった表出の矛先に沈殿して在るというわけかと思った。911の同時多発テロ(疑惑説もある)の2001年にはまだ小学校に入ったばかりで、高校生となり絵を描きはじめた画家は、「震災以降」という検証と修復の時期に美術教育を大学で履修して今年卒業した。つまり思春期を崩壊、解体、ゼロからの構築の時代として生きながら彼は絵を描くことを選んだというわけだ。画布ではなく100号より少々大きめの紙を机に敷いてほぼ二週間に渉って現地制作する画家の横で、私も制作を行っていたので、彼の朴訥真摯な制作の後ろ姿を長い時間眺めていたこともあり、奇妙な既知感のような記憶のぶり返しのような、シェアする共同アトリエでの制作する空間に酔うようでもあり、BGMなども流さずほとんど会話などすることもなかった制作の現場の過ごしの中で、確かに共振する眼差しの交錯が一方的にでもあったかもしれない。
 画家の観察の好奇心、関心が、描く表出とイコールであるとは云えないが、なにかしらの選択、意思決定の結果として、現在を紡ぐという姿勢はある。そのリアリティー、アクチュアリティーは画家自体の体感として彼を裏切るものでなければ、彼はまた筆をとる。ただそれだけのことだろう。近代的教養的絵画に従う必要の無い時代において、行うものも受け止めるものにとっても、顕われる絵画はその自同律が明晰に証されていなければ、機能性も魅了されることも簡単に喪失する。つまり画家の「屈託」としての絵画は、どうだろう、現代を生きるサバイバルの記録と位置づけられるのではないか。「うつくしいものをえがきました」という自同律がいかにも哀しい絵画の不成立(傲慢)でしかない現在において、描くということで生きることはできるのかという問いとして、作品が顕われるとしたらと、「極彩色の混沌」を拙さと巧緻を混ぜ合わせるように浮かばせる画面を、つくづく眺めよう。

文責 町田哲也