個人的には数十年来色彩に関しては混合された色合いよりも単色に魅了される性分であったこともあり、画家が最近シンボリックに大きな色彩空間を占めるようにはじめたバーントシェンナだろうか、確かめていないが、おそらく東京藝術大学絵画科油画技法材料研究室とホルベインが産学共同調査研究で開発した油一の発色のせいか、こちらも最近鉄粉材の行方に任せた燃える錆色と似ていることも重なり、土自体であるかもしれないとも思う色からの想起が豊かに広がる。
私は青年期に国吉康雄(1889~1953)に傾倒し、模写などもしたこともあったが、テーマ性に言及する立場にいなかったので、つくづく細部の「描き方」に固執する青さのまま、思考をとどめていたのかもしれない。今回の画家の大作から、私は国吉を強く憶いだすというより感じていた。国吉は成熟期に第二次世界大戦におけるアイデンティティーの揺らぎ(日本国籍でありながらアメリカを支持するニューヨーク在住日本人美術家委員会の名で声明を出す等ーwiki)を経て、幻想的な画風から比喩や暗喩をギミックとして植え込む画面創作へ移行している。色彩が国吉の初期を思い起こさせただけでは勿論ない。川合の昨年の大作を引き受けたかの新作に示されているのは比喩や暗喩ではなくむしろ「啓示」と私はこれまで何度も感じており、彼へのインタビューでも、行為性が突出せざるを得ない抽象ではない形象(ヒトガタなど)の必要性は、届ける相手の感応を信じて最低限の眺めるドアをこしらえることが、彼にとっての「絵画を描く」礼節なのだと語ってくれた。どちらも形象を示す画面において、半世紀を隔てて併置した国吉と川合という画面を、あたかも「*ふたつの太陽」のように眺めるのだった。
このような意識を動かすことを促す絵画をどのように名指すかはわからないけれども、例えばこうした作品が小中学校の講堂や音楽室に置かれて在ったならば、そこで育む幼い意識はいかようであろうかと思う。これも二年前に川合が小布施町図書館テラソで開催した個展時に読書か宿題で立ち寄った子供たちが暫し本から視線をもちあげて絵画作品を眺めている姿が忘れられないからでもある。公共の場所、特に情動や発想を育む生活の空間でこうした作品と出会えるような配慮、取り組みを、自治体などに対してお願いするのは、間違っていないだろう。
*広島大学の生物学准教授の長沼毅が、太陽系は太陽がひとつであるから現在の思想や学問が成立しているが、太陽がふたつあったなら全くことなった文明が生成された筈だと面白いコメントをしているが、私も二十年前に同じことを考えたことがあり、「ふたつの太陽」という平面作品を制作している。
ホルベイン油一説明書 >> PDF
文責 町田哲也