ナガノオルタナティブ2015 界域(雑感とこれからについて)
作品の界域というものがあると今更に感じさせる企画展となった。それは大型平面作品と立体(インスタレーション)、映像、パフォーマンスなどの併置展開をする初動起点を場所の契機として喚起させるべく多様な表出を混在させたからであると共に、作品の及ぼすものが、混在という現実性(社会性)をそのまま投影させるこのような展開では、やはりそれぞれの作品はこうした現場性においてあるひとつの「喚起」として相対相互照応はするけれども、作品ひとつ(一系統)だけで存在の意味と効果を発揮すべき「場所性」ということは、別途あるべきだろうということを明晰に示したことだ。さまざまな表出が混在する契機の意味を繰り返して考えるよりも、今後どのような系をすすむべきかを、こういった印象によって促されるものがある。これは修復論的な時代的な感覚においても頷ける。端的に云えば最早「グループ展」のようなことを繰り返してもつまらないということだ。
場所の理解と解釈も、固有な責任において取り組まれることが望ましい。例えば「絵画」という平面の仕事の界域は、四角い平面の上であることを離れないという決定と、その平面性に於いてだけ語り得ることの限界を敢えて示すことであり、そうした「絵画平面群」という併置状況は、単独意匠によるユニット構築を目指したものでなければ、平面の外側というものはもとより考慮されていない。だからこそ「絵画」という性格の重厚な追求が各々可能なのであり、画家はその平面の箍によって生きることを許されているようなものだ。故に「画家」という言葉がある。作品の絵画性が特定の場所において発揮されるべき展開表出のビジョンは、その性質に応じれば、性質の純血を守るように(例えば教会に置かれたひとつのイコンのように)されるべきとも云える。つまり画家の脆弱は、その作品が「どこに置かれるべきか」などを考えていないところにあるとも云える。あるいはまた、環境(状況)に応じる(依存する)立体(インスタレーション)にとって、作品の空間呼応は、これも絵画的平面と同様、空間の広がりや質的な併置環境を考えれば「ソレがソレとしてだけみえる」状況構築は尚むつかしい。だから個別が特化されて見えてくる時空は今後別の工夫(この場所が作品によって前述した教会のように感じられるなど)が必要になるだろう。
今回の併置企画が大型作品であることという平面性も、特に大きな意味ではなく、単に倉庫ギャラリーという空間に併置対峙する想定として挙げただけのことであったが、見方を変えれば、異形併置により様々な展開の予感を孕むことができることになった。なにしろ、こじんまりとしたホワイトキューブ的プレゼンステージにお行儀よく並べる仕方には慣れている昨今の作家にとって、いわば野蛮とも感じることのできる「剥き出し空間」である倉庫という状況に、それぞれが課している界域を踏み越えたテーマや動機として「取りつく島」を考慮する契機にはなったと思われる。単にこしらえたものを置くだけではすまないというわけだ。つまり、混在ではない、ひとつの固有な顕われとして「場所(倉庫ギャラリー)が変異」し、作品が果たされる時空を、新たに当事者が描き出し、そこで何が行われるかを、送り手も受け手も同様に期待するベクトルがみえる。ナガノオルタナティブ2016は、これから詳細計画をはじめるが、おそらく、こうした踏まえを持って、ある種鮮明な見え方を探求するスタイルになるだろう。
現場制作をする画家もいたということを加えれば、この場所が、そうした発生の場所としての機能性を果たせば、場所の機能を得ながら更新するかに生成される作品の様態も、これまでにないものになるかもしれない。
文責 町田哲也