Category: document

2021 resilience Masahisa Koike view

070321-01.mov from baeikakkei on Vimeo.  一ヶ月の現地制作で構築された空間は、ある種原初的な生と死を執り含む「聖祝祭」、祈りの場を想起させた。パンデミックな感染病が蔓延する時節と重なったこともあり、そうしたことへ抗う人間の力というものもそこに加えて示されている。そしてこれを目撃した人びとは、おそらく自らの潜在的な能力を再認識し、勇気づけられ、生存へのサバイバルスキルの覚醒が齎されたのではないか。企画副題に置いたレジリエンスへ真っすぐに照応している個展といえる。  固有個体の芸術の発動が、役割として社会性を孕む位置づけは、作家にとっても、それを受け止める者たちにとっても、簡単な認知で済ますことはできない。社会は、様々な群で組織されており、過去を俯瞰しても、芸術のほとんどはそうしたヒエラルキーに依って擁護されている。社会的辺境(無所属)に立ち、社会的束縛(忖度)を断ち切った視線で構築する芸術の自由は、兎角それを充分に理解できる、律令から山奥へ逃れた人びとのようなマイノリティーが、最初に注視する性格があり、例えば、荒川修作(1936~2010)「養老天命反転地」https://www.yoro-park.com/facility-map/hantenchi/ のような顕われは、希有な事象であり、今回の作家、小池雅久氏による、学校、病院、公園の開発を手引きする介在者は、この国には存在しない。  社会構造への介入を先験的にリードした彫刻家、若林奮(1936~2003)に師事していた、小池氏は、初期から旧来の盲目的な彫刻作品制作のスタンスを廃棄し、社会的なクライアントとの交渉制作という現場にて、個的な見切りを発揮している。  今回の芸術作品は、世の中のほとんどの複雑な妥協的構造物と異なり、手法的にはミニマルな技法(木材の組み合わせ・土)で構築されているため、フライヤーで示されたプランドローイングと同じ、スケッチのストロークが重なった空間にもみてとれる。同様な事象神事が善光寺近隣の神社にてあると指摘された、胎内回帰を思わせる形態は、その奥に設置された311への十年越しの祈りの炎が、クリスチャン・ボルタンスキー(1944~2021)の記憶・忘却、不在などを想起させる。  年に一度の祝祭に集ったような観客は、美術館やギャラリーの無菌空間の作品を眺めにきたのでなく、諏訪の御柱祭への参加者に似た目をしていた。企画者の個人的な都合で、小池雅久個展のアーカイブ制作がほとんど一年遅れたことに謝罪を付け加えつつ、2022年10月に、作家本人から申し出され、悦ばしくお願いすることになった、小池雅久企画展が開催される。 文責:町田哲也

2020 BUTSUSHIKISOKU october view

 ナガノオルタナティブ「物識測」10月展は、広瀬毅、二ノ宮裕子、北澤一伯の三名(敬称略)によって、作品が*構築展示されました。4名の作家作品が併置された9月展と比較すると、空間の作品展開のボリュームが相対的に増して、各作家による周到機知に富んだ空間が形成されています。文脈の異なる同世代作家(昭和20~30年代生まれ)でありながら、作品の示す様態には、視覚藝術言語差異があり、併置されることで、それぞれの特異性が際立っています。 *従来のような出来上がったものを運び込むという展示ではなく、三名とも現地制作という形をとっており、作品は時間を注いで建造されています。  出自を無視すれば構成的なインスタレーションと一瞥はできる広瀬作品の、古材を使用した個人主義的な空間を色濃くする理由は、ナガノオルタナティブ個展で展開した、床面を木材チップで敷き詰め古廃材が横たわるという素材自体の圧倒に時空形成を任せた状態とは異なった、謂わば重装備を解いた軽装にて恣意的な構成を、例えば糸のテンションなどで敢えて見える形にして、創作という関与、行為性を顕著にしているからであると思われます。古材と合板を交錯させ幾何的に壁面から床面に配置された、水平から地に落とされる(あるいは逆)視野構造の対壁面に、幾何的整合性を解体するように集積された古材の構成が、そのまま作家が最も行ないたかった振舞いとして、百年に渡る構成主義的な視覚藝術の歴史を誘いつつ展開されています。普段は建築家として、あるいはコンサルタントとして、社会環境のリノベーションに携わる仕事をしている作家の、常態からの離脱、逃走劇のようなものとまた捉えることもできます。作品出現の詳細なディティールをこうした固有の事情に支えられていると弁えることもできますが、作家の抽象的現象化を眺めて受け止める側としては、選ばれた古材自体への関わり方、テンションと構成の恣意のボリューム、併行して別会場で展示されたプランドローイングにある湾曲した線描(インスタレーションには曲線は見出されない)、あるいは何故ひとつ既製の使い古した椅子が置かれているのかなどを巡り、物自体が示す多くをパズルを組み立てるように、誤解をおそれずに自由に感得するべきであると思われました。個人的な印象を加えれば、普遍的共有空間(作家は常態時に近接している)に抗うかのインスタレーション(共有されることを望んでいないように受け止められる)が、おそらく作家の今後の振舞いに影響を与えるプレイベントとなって、更に思いがけない事象へと押し進められることがあるでしょう。最終日には広瀬毅パフォーマンスが行なわれます。音響的な取り組みだと聞いていますが、固有名をより特徴づけるイベントになると思います。  遠路参画をお願いした二ノ宮氏(東京在住)は、遠隔地にて作品展開するというリスク自体を創作の基底構造とした、ナガノオルタナティブ個展時(合板使用)よりも一層軽やかな素材選択(運び易い)にて、効果的な空間構造が示されました。つまり「遠くへ出向いて作品展開を行なう」ということが、今回の大きな成立因であるわけです。透明ダンボールという素材を切断し折曲げ形象固定するという単純で切り詰めた加工がなされた断片が、「うすらび」と題された、弱い木漏れ日を想起させるポストミニマルなリダクショニズム(還元)を思わせ、素材自体が透き通らせる陰翳が弱い日差しに充たされた空間へ変容することを、作家が目指していると理解できます。つまり、作品はシンプルな仕組みでイメージへ位相させる仕掛けとなっており、素材自体、物自体の物質的凡庸性は創作の過程で表層から剥離し、置かれ方、光の状態によって、物ではない事象を孕むわけです。作品の断片(数十パーツに及ぶ)は、様式化されており、できあがる形象の差異は、素材の切断線、折られ方によって決定されたサイズだけである故に、イメージへの変換がむつかしくないという工夫が凝らされています。この作品意匠によって様々な空間環境への展開が可能であり、もしかすると素材に秘められた別の特性の引き出しによって、全く別の状況へ促すこともあるかもしれません。この国では放浪民はメジャーではありませんが、ジプシーアートと名付けたいような気もします。因に素材が折られた場合直線的な構造が生まれますが、対象的な形象構造として切断された曲線は、自らの腕が身体的に示したものと作家より語られました。コンパスなどで幾何的に与えるものではなく、シンプルな構造内に密やかに置かれた人間的な形象であるということが、空間自体を一層柔らかなものとしている所以である思われました。別会場で展示された平面作品は、シルバーポイント(銀を擦り付けて描画)で制作されており、おなじく「うすらび」と題されています。銀の儚い反射と微細な線描は、透明ダンボールとは全く別のアプローチですが、これら作品も足元や川面に落ちる木漏れ日と眺めることができます。  泊まりがけで数日集中して作品制作をしていただいた北澤作品は、今回の3作家作品併置空間であったからこそ、その作品の偉容(威容)が露となりました。物自体の振舞いに注視する作家性として、物自体が本来的に孕んでいる磁性、出自、来歴、属性を、丁寧に掬い上げ「置く」ことで、その物質性がそのまま視覚言語的な動詞や接続詞、関係詞となり、連鎖構造による「物語」のようなものが勝手に想起され、一切の変換が行なわれない視界洪水の黙示録とも見受けられます。作家の掬い上げは恣意的で任意なものであるには違いないのですが、彼の数十年に渡る制作の見切り(阿ることをしないという持続)によって、その言語性は、あるいは微妙な仕草の塩梅によって、剛直な普遍を纏うのだと思います。「約束の地の塩」と題された、今回特徴的な物質である「塩」は、作家の移動する活動拠点が、フォッサマグナ(中央構造線)を背骨とした地勢的な「塩の道」(塩尻)に起因しているかもしれないと憶測しつつ、生命を補完する「遊動的移動」の象徴である塩が、夥しい数の精査(錬磨)された物となって置かれています。場所を特徴付けるある種秘匿されたものの開示のように眺めることができます。あるいはまた、試験管に入った羽根(これまでも作家は羽根を素材として多く使用)や、錆びた鉄塊、曲がった鉄棒、銅と、壁面材(松代アートフェスティバルで長年に渡り作品展開)が、従来の物の属性を認(したた)めたまま、眺める(みつめる)という人間の知覚神性を研ぎ澄ます儀礼構造のような、のっぴきならないムードを漂わせ、いつまでも眺めることができる(語り続ける)視覚藝術作品となって、我々の前に降臨したかに見えるのです。別会場用に制作展示していただいた「オッカムの剃刀」と題された平面的オブジェ作品は、価格に対して相談されましたが、こうしたのこされる作品こそ、自治体などの管理する美術館で購入するべきだと思います。インスレーション的立体彫刻作品が出現する時、今後、再制作はむつかしいと思われる場合は特にこの時空が儚く貴重に感じつつも、作家の成熟は、出現の時々に新しく示唆されるのだと痛感します。目眩などの体調不良(執筆者も同じ)のあるお身体が心配ですが、今回の参画に感謝して、今後のご教授を続けてお願いしたいと思っています。 文責 町田哲也

2020 BUTSUSHIKISOKU september view

091920 from baeikakkei on Vimeo.   モノ自体への身体的(或は観念的)な関わりをモノ自体で実現創出し、彫刻的•立体化•インスタレーションを制作所作と振る舞う、ナガノオルタナティブ*1個展経験作家による、空間を折半(共有)した併置展「物識測」(以下作家敬称略)は、君島しょうたろう、松本直樹、刈込芳一、町田哲也、4名による9月展、広瀬毅、二ノ宮裕子、北澤一伯、3名による10月展として、昨年暮れから準備されましたが、新型コロナ感染の社会事象があり、都度の様相に照応した取り組みとして、参画作家各位には作品制作以外のこうした状況に対する判断を加えた展開をお願いすることになりました。「物識測」展の、あからさまな物質を扱う作家作品併置の事象として、敢えて試みる因に、特定の目的を含めた恣意は企画側にはありませんが、現実的(リアル)な出来事に対峙し倫理的な決断を迫られる昨今の逆転的社会空間(デジタル情報主流)の蔓延の中、直視するべき目の前を手探りで切り開き、原理的な身体的感受機能の活性を、作家作品から促される時空場を創出したいという思いはあります。 *1:ナガノオルタナティブ作家アーカイブを参照ください。http://naganoalternative.com/?page_id=208  プラスティック廃材断片が壁面と床に配置された君島しょうたろう作品は、空間北側壁面とその手前の床面に展開され、ここ数年作家が示す全ての作品に与えられている「間(あわい)」と、変わらずに題されています。脇に椅子が置かれ「座って鑑賞できる」と但し書きがされています。数年前より任意に採集取得した物質(廃棄物•調度品•雑貨物)を配置するインスタレーションを始めた作家は、以前より平面作品を淡々と制作しており、今回の別会場での平面作品は作家の文脈に則った系譜的な展開継続されています。  一旦細かく粉砕されたプラスティック廃棄物が熱で溶けた断片として排出した破片を「選んで拾う」ことからはじまる君島作品は、配置することで一連の振る舞いは完了します。Jurgen Lehl (1944~) The End of Civilization (21世紀美術館)と酷似した作業ではあるけれども、選択されたモノは、美麗ではない(美麗なものとしていない)という、顕著な差異があります。作家の創出とは、モノ(出来事)に出会うことであり、その遭遇の契機及び過程が重要であるようです。  松本直樹作品も、君島作品と似た、デュシャン_レディメイド的なモノ自体への実直な歩み寄りが示されていいますが、骨董品や既製品を抱き合わせる作業の中で、下位構造(筐体基底)に、視覚化不能のレヴェルでの細やかな介入(細工)が施されており、一見単純に誰にでもできる併置であるかの放置を装った作品として提示されています。どこをどのように手が入れられているか観客に問いを与える探索の道を示しているとも考えられますが、その問いを判然とさせないカラクリのようなタイトルが作品に与えられています。宮大工が屋根の下に密かに仕込んだ複雑な工作に似ているともいえます。故に作品の尺、スケールは、選ばれたオブジェの組み合わせ(俳句のような)によって決定されるわけですが、恣意的に拡張(変形・誇張)を加えられる場合もあり、世界現実に依存、あるいは従った態で、その状況を笑うような空気が既製品という表層に醸されています。けれども目に見えない仕込みには、シニカルな皮相性を剥がす手触りがあると思われました。  刈込芳一作品は、鏡の断片が表層を覆う「海の家」作品からの系譜として、今回は人型を象徴化し「長野」という場所をタイトルとした、モニュメンタルな立体と、照応(コレスポンダンス:Correspondances / ボードレール)する鏡の平面作品が、配置されました。千葉県富津市からの参加出品ということもあり、遠路、感染事象の中、週末を使って作品搬送していただいたこともあり、幾つもの制約を超えた展示展開に企画側として非常に感謝しています。世代的には三十代作家である、君島、松本作作品と、六十代の同世代である、刈込、町田(企画•執筆者)作品は、「つくる」という過程そのものへの身体的な愛着に支えられており、正にこれが世代差であると感得しました。つまり、「つくる」という過程への精神的肉体的投入がそのまま露になって構わないという姿勢(態度)として作品化が、刈込、町田作品制作に行われており、若い世代作家は、その態度に疑問符を与える仕組みを考えているということでしょう。昨年の刈込氏個展においては、環境(森・海岸)へ接続する制作系譜を、倉庫ギャラリーという固有空間へ位相させる過程で作品構造が露になり、作家の指向が、その形態と素材に注視させられる展開となりました。同じ空間での他作品との併置という今回の提示は、素材と形態への深化というよりも、作家自身が自らの作品化を探求検証するふるまいとなったようにうかがえます。  創作することが、社会への提言に等しい世代があり、君島、松本作品は、そのような領域(或は時にはイデオロギー)に向かって放たれているとすると、作品の成立が、嘘の無いあからさまを呈しつつ、選択(決断)の倫理を自らに問う自省的なニュアンスを纏うものと云えるかもしれません。併置された刈込、町田作品を、等しく考えるべきではないけれども、創出する関わりの過程時間によって、都度、体と知性の健全の持続を生命的に希求する様相となるのは、これも嘘の無い軸筋で、否定することもないと思われました。  今年になってクリスト、原口典之氏、安斎重男氏などばたばたと逝去し、個人的には、あらゆる局面で大袈裟な取り組みが自粛バイアスによって成りを潜めるだろうという感触を持ちつつ取り組んだ町田(執筆者)作品に関して、振り返ることがあるとすれば、前述した展示景を重ねながら、大義ではなく、一義的な必要として、作品制作を目の前に捉え続け、観念に埋没する青年時の集中持続する身体を持っているわけではないことを加えて、人生の残りを空の星を仰いで健全を測るかに歩きたいと思っています。一時は、平面にしろ立体にしろ、具体的な事象への歩み寄りも「自由」の一部と許した試行もありましたが、現在は、いずれやがては優れた多面体の形象にたどりつけるだろう。その連なりのようなものが、空の星を線で繋げるかの抽象と眺められるのではないかと考えています。 文責 町田哲也  

Autumn Crossing 091817-092317

091817-092317 / PDF >> 松本直樹x丸田恭子クロッシング ★ 9/18(月)~ 9/23(土) 9/23 土曜日 午後4時より クロッシング作家によるギャラリートーク *9/24日は9/25月より開催される、丸田恭子展(ソロ)の準備入替日となります。