2020 BUTSUSHIKISOKU september view

間(あわい)
君島しょうたろう



Nagano
2020
鏡、アクリル
刈込芳一


Nagano
2020
合板、鏡、アクリル
刈込芳一




西瓜は土で作れ南瓜は手で作れ
2020
スコップ、木彫置物
松本直樹


焼け石に水-苦瓜(赤)
焼け石に水-縁起(緑)
2020
耐火レンガ、水ひしゃく、てぬぐい
松本直樹



多面体の地
白樺、杉、古材
町田哲也



  モノ自体への身体的(或は観念的)な関わりをモノ自体で実現創出し、彫刻的•立体化•インスタレーションを制作所作と振る舞う、ナガノオルタナティブ*1個展経験作家による、空間を折半(共有)した併置展「物識測」(以下作家敬称略)は、君島しょうたろう、松本直樹、刈込芳一、町田哲也、4名による9月展、広瀬毅、二ノ宮裕子、北澤一伯、3名による10月展として、昨年暮れから準備されましたが、新型コロナ感染の社会事象があり、都度の様相に照応した取り組みとして、参画作家各位には作品制作以外のこうした状況に対する判断を加えた展開をお願いすることになりました。「物識測」展の、あからさまな物質を扱う作家作品併置の事象として、敢えて試みる因に、特定の目的を含めた恣意は企画側にはありませんが、現実的(リアル)な出来事に対峙し倫理的な決断を迫られる昨今の逆転的社会空間(デジタル情報主流)の蔓延の中、直視するべき目の前を手探りで切り開き、原理的な身体的感受機能の活性を、作家作品から促される時空場を創出したいという思いはあります。

*1:ナガノオルタナティブ作家アーカイブを参照ください。http://naganoalternative.com/?page_id=208

 プラスティック廃材断片が壁面と床に配置された君島しょうたろう作品は、空間北側壁面とその手前の床面に展開され、ここ数年作家が示す全ての作品に与えられている「間(あわい)」と、変わらずに題されています。脇に椅子が置かれ「座って鑑賞できる」と但し書きがされています。数年前より任意に採集取得した物質(廃棄物•調度品•雑貨物)を配置するインスタレーションを始めた作家は、以前より平面作品を淡々と制作しており、今回の別会場での平面作品は作家の文脈に則った系譜的な展開継続されています。
 一旦細かく粉砕されたプラスティック廃棄物が熱で溶けた断片として排出した破片を「選んで拾う」ことからはじまる君島作品は、配置することで一連の振る舞いは完了します。Jurgen Lehl (1944~) The End of Civilization (21世紀美術館)と酷似した作業ではあるけれども、選択されたモノは、美麗ではない(美麗なものとしていない)という、顕著な差異があります。作家の創出とは、モノ(出来事)に出会うことであり、その遭遇の契機及び過程が重要であるようです。

 松本直樹作品も、君島作品と似た、デュシャン_レディメイド的なモノ自体への実直な歩み寄りが示されていいますが、骨董品や既製品を抱き合わせる作業の中で、下位構造(筐体基底)に、視覚化不能のレヴェルでの細やかな介入(細工)が施されており、一見単純に誰にでもできる併置であるかの放置を装った作品として提示されています。どこをどのように手が入れられているか観客に問いを与える探索の道を示しているとも考えられますが、その問いを判然とさせないカラクリのようなタイトルが作品に与えられています。宮大工が屋根の下に密かに仕込んだ複雑な工作に似ているともいえます。故に作品の尺、スケールは、選ばれたオブジェの組み合わせ(俳句のような)によって決定されるわけですが、恣意的に拡張(変形・誇張)を加えられる場合もあり、世界現実に依存、あるいは従った態で、その状況を笑うような空気が既製品という表層に醸されています。けれども目に見えない仕込みには、シニカルな皮相性を剥がす手触りがあると思われました。

 刈込芳一作品は、鏡の断片が表層を覆う「海の家」作品からの系譜として、今回は人型を象徴化し「長野」という場所をタイトルとした、モニュメンタルな立体と、照応(コレスポンダンス:Correspondances / ボードレール)する鏡の平面作品が、配置されました。千葉県富津市からの参加出品ということもあり、遠路、感染事象の中、週末を使って作品搬送していただいたこともあり、幾つもの制約を超えた展示展開に企画側として非常に感謝しています。世代的には三十代作家である、君島、松本作作品と、六十代の同世代である、刈込、町田(企画•執筆者)作品は、「つくる」という過程そのものへの身体的な愛着に支えられており、正にこれが世代差であると感得しました。つまり、「つくる」という過程への精神的肉体的投入がそのまま露になって構わないという姿勢(態度)として作品化が、刈込、町田作品制作に行われており、若い世代作家は、その態度に疑問符を与える仕組みを考えているということでしょう。昨年の刈込氏個展においては、環境(森・海岸)へ接続する制作系譜を、倉庫ギャラリーという固有空間へ位相させる過程で作品構造が露になり、作家の指向が、その形態と素材に注視させられる展開となりました。同じ空間での他作品との併置という今回の提示は、素材と形態への深化というよりも、作家自身が自らの作品化を探求検証するふるまいとなったようにうかがえます。

 創作することが、社会への提言に等しい世代があり、君島、松本作品は、そのような領域(或は時にはイデオロギー)に向かって放たれているとすると、作品の成立が、嘘の無いあからさまを呈しつつ、選択(決断)の倫理を自らに問う自省的なニュアンスを纏うものと云えるかもしれません。併置された刈込、町田作品を、等しく考えるべきではないけれども、創出する関わりの過程時間によって、都度、体と知性の健全の持続を生命的に希求する様相となるのは、これも嘘の無い軸筋で、否定することもないと思われました。

 今年になってクリスト、原口典之氏、安斎重男氏などばたばたと逝去し、個人的には、あらゆる局面で大袈裟な取り組みが自粛バイアスによって成りを潜めるだろうという感触を持ちつつ取り組んだ町田(執筆者)作品に関して、振り返ることがあるとすれば、前述した展示景を重ねながら、大義ではなく、一義的な必要として、作品制作を目の前に捉え続け、観念に埋没する青年時の集中持続する身体を持っているわけではないことを加えて、人生の残りを空の星を仰いで健全を測るかに歩きたいと思っています。一時は、平面にしろ立体にしろ、具体的な事象への歩み寄りも「自由」の一部と許した試行もありましたが、現在は、いずれやがては優れた多面体の形象にたどりつけるだろう。その連なりのようなものが、空の星を線で繋げるかの抽象と眺められるのではないかと考えています。

文責 町田哲也