ナガノオルタナティブ「物識測」10月展は、広瀬毅、二ノ宮裕子、北澤一伯の三名(敬称略)によって、作品が*構築展示されました。4名の作家作品が併置された9月展と比較すると、空間の作品展開のボリュームが相対的に増して、各作家による周到機知に富んだ空間が形成されています。文脈の異なる同世代作家(昭和20~30年代生まれ)でありながら、作品の示す様態には、視覚藝術言語差異があり、併置されることで、それぞれの特異性が際立っています。
*従来のような出来上がったものを運び込むという展示ではなく、三名とも現地制作という形をとっており、作品は時間を注いで建造されています。
出自を無視すれば構成的なインスタレーションと一瞥はできる広瀬作品の、古材を使用した個人主義的な空間を色濃くする理由は、ナガノオルタナティブ個展で展開した、床面を木材チップで敷き詰め古廃材が横たわるという素材自体の圧倒に時空形成を任せた状態とは異なった、謂わば重装備を解いた軽装にて恣意的な構成を、例えば糸のテンションなどで敢えて見える形にして、創作という関与、行為性を顕著にしているからであると思われます。古材と合板を交錯させ幾何的に壁面から床面に配置された、水平から地に落とされる(あるいは逆)視野構造の対壁面に、幾何的整合性を解体するように集積された古材の構成が、そのまま作家が最も行ないたかった振舞いとして、百年に渡る構成主義的な視覚藝術の歴史を誘いつつ展開されています。普段は建築家として、あるいはコンサルタントとして、社会環境のリノベーションに携わる仕事をしている作家の、常態からの離脱、逃走劇のようなものとまた捉えることもできます。作品出現の詳細なディティールをこうした固有の事情に支えられていると弁えることもできますが、作家の抽象的現象化を眺めて受け止める側としては、選ばれた古材自体への関わり方、テンションと構成の恣意のボリューム、併行して別会場で展示されたプランドローイングにある湾曲した線描(インスタレーションには曲線は見出されない)、あるいは何故ひとつ既製の使い古した椅子が置かれているのかなどを巡り、物自体が示す多くをパズルを組み立てるように、誤解をおそれずに自由に感得するべきであると思われました。個人的な印象を加えれば、普遍的共有空間(作家は常態時に近接している)に抗うかのインスタレーション(共有されることを望んでいないように受け止められる)が、おそらく作家の今後の振舞いに影響を与えるプレイベントとなって、更に思いがけない事象へと押し進められることがあるでしょう。最終日には広瀬毅パフォーマンスが行なわれます。音響的な取り組みだと聞いていますが、固有名をより特徴づけるイベントになると思います。
遠路参画をお願いした二ノ宮氏(東京在住)は、遠隔地にて作品展開するというリスク自体を創作の基底構造とした、ナガノオルタナティブ個展時(合板使用)よりも一層軽やかな素材選択(運び易い)にて、効果的な空間構造が示されました。つまり「遠くへ出向いて作品展開を行なう」ということが、今回の大きな成立因であるわけです。透明ダンボールという素材を切断し折曲げ形象固定するという単純で切り詰めた加工がなされた断片が、「うすらび」と題された、弱い木漏れ日を想起させるポストミニマルなリダクショニズム(還元)を思わせ、素材自体が透き通らせる陰翳が弱い日差しに充たされた空間へ変容することを、作家が目指していると理解できます。つまり、作品はシンプルな仕組みでイメージへ位相させる仕掛けとなっており、素材自体、物自体の物質的凡庸性は創作の過程で表層から剥離し、置かれ方、光の状態によって、物ではない事象を孕むわけです。作品の断片(数十パーツに及ぶ)は、様式化されており、できあがる形象の差異は、素材の切断線、折られ方によって決定されたサイズだけである故に、イメージへの変換がむつかしくないという工夫が凝らされています。この作品意匠によって様々な空間環境への展開が可能であり、もしかすると素材に秘められた別の特性の引き出しによって、全く別の状況へ促すこともあるかもしれません。この国では放浪民はメジャーではありませんが、ジプシーアートと名付けたいような気もします。因に素材が折られた場合直線的な構造が生まれますが、対象的な形象構造として切断された曲線は、自らの腕が身体的に示したものと作家より語られました。コンパスなどで幾何的に与えるものではなく、シンプルな構造内に密やかに置かれた人間的な形象であるということが、空間自体を一層柔らかなものとしている所以である思われました。別会場で展示された平面作品は、シルバーポイント(銀を擦り付けて描画)で制作されており、おなじく「うすらび」と題されています。銀の儚い反射と微細な線描は、透明ダンボールとは全く別のアプローチですが、これら作品も足元や川面に落ちる木漏れ日と眺めることができます。
泊まりがけで数日集中して作品制作をしていただいた北澤作品は、今回の3作家作品併置空間であったからこそ、その作品の偉容(威容)が露となりました。物自体の振舞いに注視する作家性として、物自体が本来的に孕んでいる磁性、出自、来歴、属性を、丁寧に掬い上げ「置く」ことで、その物質性がそのまま視覚言語的な動詞や接続詞、関係詞となり、連鎖構造による「物語」のようなものが勝手に想起され、一切の変換が行なわれない視界洪水の黙示録とも見受けられます。作家の掬い上げは恣意的で任意なものであるには違いないのですが、彼の数十年に渡る制作の見切り(阿ることをしないという持続)によって、その言語性は、あるいは微妙な仕草の塩梅によって、剛直な普遍を纏うのだと思います。「約束の地の塩」と題された、今回特徴的な物質である「塩」は、作家の移動する活動拠点が、フォッサマグナ(中央構造線)を背骨とした地勢的な「塩の道」(塩尻)に起因しているかもしれないと憶測しつつ、生命を補完する「遊動的移動」の象徴である塩が、夥しい数の精査(錬磨)された物となって置かれています。場所を特徴付けるある種秘匿されたものの開示のように眺めることができます。あるいはまた、試験管に入った羽根(これまでも作家は羽根を素材として多く使用)や、錆びた鉄塊、曲がった鉄棒、銅と、壁面材(松代アートフェスティバルで長年に渡り作品展開)が、従来の物の属性を認(したた)めたまま、眺める(みつめる)という人間の知覚神性を研ぎ澄ます儀礼構造のような、のっぴきならないムードを漂わせ、いつまでも眺めることができる(語り続ける)視覚藝術作品となって、我々の前に降臨したかに見えるのです。別会場用に制作展示していただいた「オッカムの剃刀」と題された平面的オブジェ作品は、価格に対して相談されましたが、こうしたのこされる作品こそ、自治体などの管理する美術館で購入するべきだと思います。インスレーション的立体彫刻作品が出現する時、今後、再制作はむつかしいと思われる場合は特にこの時空が儚く貴重に感じつつも、作家の成熟は、出現の時々に新しく示唆されるのだと痛感します。目眩などの体調不良(執筆者も同じ)のあるお身体が心配ですが、今回の参画に感謝して、今後のご教授を続けてお願いしたいと思っています。
文責 町田哲也