2016 Landscape_03 Tetsuya Machida “Anti-rectangle”

ナガノオルタナティブ 2016_03
「ランドスケープ」町田哲也「反矩形」
2016 12/1,2,3,8,9,10,15,16,17,21,22,23,24 / 13days
13:00~16:00 ¥500-
@ FFS_Warehouse Gallery

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artists statement


アンチテーゼ(ドイツ語: Antithese)とは、最初の命題の反対の命題で、直接的に対照をなすもの。正反対とも。反対の設定の中で、おのおのは表現の明確な対照によって、意味(定義、解釈、意味論など)の対照も引き出す。-wiki
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 反感、反抗、反撃、反発、反故、反論など、反ではじまる動詞なり名詞に対して否定的な状況を示すが、同時にアンチテーゼは、状況探索的な深さ(関心)をもたらす。よって「反矩形」とは、矩形を否定するのではなく、テーゼを注視するという態度としてこれを此処に与えた。

 恣意として形を顕す時、往々にして「借景」「引用」「比較相対」的な仕方で、対象を変換させる手法が選ばれる場合が多いのは、完成形象に他者からの共感を求めるからだが、「モノができあがる状況」そのものに終始する関わりを、意訳変換の手前で踏みとどまるような作法を、私は考えている。
 形象が、例えば動物に似ているとかの、比喩ではなく、名づけようのない状況状態そのものを感得するために、これまで例えば「関係性」など、接続動詞的な「共感」を位相させる手法がとられてきたが、私は自然世界の、「散乱」に近い無関係な「併置」状況へのいいようのない関心があり、自らの探索状態そのものを示したいのであって、それが転じ別のなにものかを照射していくこれまでの経験に基づいて、反復される「創作」構造を相応なものにしたい。

 私的な環境の「積木」へ染み込んだ意識の記憶を頼りに、長々と世界注視へのトリガーとして現実への「取りつく島」を手元に探る、あるいは空間そのものの実感の抽出に関わるのは私の取り替えのきかない気質でもある。「矩形」(統合)を批判的に「解体余白構築」する、謂わば思念鍛錬の反復ともいえるこの制作を俯瞰的に眺めることを、今回のナガノオルタナティブ2016「ランドスケープ」最終章として位置づけた。2016年初頭に行った「self-standing sentences」(非公開)と同系軸にて愚鈍に継続しているものだが、作品制作の自同律は時間とともに改変更新され、最小限の原理律を保ったまま、その様態も意味も効果も随分差異に充ちたものになっている。同時にこの作業が契機となった(勿論可逆性を含め)、言説があり、平面の仕事もあり、音響構築もあり、映像(静止画像・動画)もある。そういう意味では、私にとって「反矩形」を構成する工作物は、都度ゼロからコトを考え立ち上げる運動といえる。
 思念の骨格は25年以上過去に用意され、具体整理の検証は最近5年ほど緩慢に行い、曲折を経て若干の進捗をみた。

「ランドスケープ」

 「景色」とは何か。利己的な社会というパラドックスの直中を生きる我々は、「無関心」と「欲望」によって、幻想的に無自覚に死者のごとく生きているのではないかと首を傾げる。多様で瑣末な頓着に日々交渉を重ねつつ、気づけば目の前に広がる「世界自然」すら観念的にしか捉えることができなくなっていると冷や汗を流す。
 意識を高みへ導いていた「現代美術」は今や「信仰」に近いものとなり、多様な類型形態も注視関心販促を促す為に娯楽へと日和見融解し、伴う脆弱な「思想」は、自己防衛的な堅牢さを閉塞的に指向するしかないのかしら。
 片田舎の倉庫ギャラリーという地域辺境であっても、提言と関心の場の構築継続によって、間主観的な風通しのよい、意識がさまざまに顫動する工夫を重ね、思いがけない「光景」に出会いたい。
 「ランドケープ」をテーマに展開する2016年ナガノオルタナティブ3回目最終章の企画展を、主催者自らが行うことにしたのは、開催場所である倉庫ギャラリー壁面改装からまだ半年しか経過しておらず招聘作家交渉の充分な時間を挟む事ができなかったことが理由のひとつでもあるが、壁面設置以前の所謂倉庫で展開した昨年の「負の力」(個展:インスタレーション)で攻略しきれなかった空間に再度挑みたいとこれを展開することにした。

 *尚、2016年9月現在、ナガノオルタナティブ2017「プリベンション」の企画計画及び参画作家交渉を開始した。

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